拙い言葉、備忘録と、音楽

思いついた言葉たちで、自分と自分の音楽について話します。

Twitterに書くと病んでると思われそうなのでブログで

自分から堕落に向かって行ったくせに,私は私の心に何かが詰まったような思いでいる.

それがとても腹立たしい.

音楽がつくれないのは私自身の感性をほったらかしにしているから.

文字に触れないから.

音楽に触れないから.

それら全てが億劫で,楽な方に逃げているから.

 

 

音楽を一緒に鳴らしてくれる仲間の気持ちは?

 

 

何も成し遂げてこなかった私がここから逃げて,ほかに何ができるというのだろう.

どんどんマイナスな方向へと考えを向けているのは,どうせここから逃げ出すためなんだろう.

22歳の冬,逃げ出さなかった周りの人間たちはそれぞれの道を歩むことに決めた.

働くことは私たちの義務であり,生きていくために私たちが支払う価値である.

ではそれが支払えなくなったときは?

それを支払わなくなったときは?

私を待っているのは堕落の末にある虚無と,現実と,虚構である.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
音楽から逃げるような堕落した生活を送っていると,音楽についてあれこれ悩むことがどれだけ辛く苦しく,そして幸せな環境であるかがわかる.
音楽について考えようとしているうちは,まだ自分が皆と同じ人間であるかのような錯覚に陥ることができた.
 
 
しかし一枚剥がすとそこには現実世界が在る.
 
 
私が何者でもない世界,何者とも定義されない世界.
本棚には飾りのような参考書が並び,どうせ音の違いなんて判りはしないくせに自慢げに使っている機材が散乱する.
何事も極めようとしないその舐め切った態度と音楽に対する姿勢を客観的に見てしまったとき,私はやはり何も変わっていないのだと感じる.
テレキャスターが鳴っているのかストラトキャスターが鳴っているのか,はたまたハムバッカーのギターが鳴っているのか,聴いただけでは私にはわからない.
ロックの歴史や有名人らしき人々,私はそれらを勉強しようとしてこなかった.
こんな人間がなぜ音楽を本気でやっている気になっていたのだろう.
勘違いも甚だしいな.
ところでこんな文章を書いている暇があったら自分の音楽のためになるようなことをひとつでもしたらどうだ,とどうでもいい言葉が私の頭に浮かんでいる.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
堕落者(ここではあくまでも私自身のことのみを指す)は堕落者なりに漫画を読んでみたりする.
例えばベイビーステップというテニスを題材にした漫画(すげえ面白い)では,出てくる登場人物全てがそれ自体に誇りを持てるほどの努力をテニスに費やしていた.
ああいう漫画は自分が努力するための起爆剤になればいいなと思って読んでいる節もあるが,なんせ怠惰な私はそういった効果を感じたことがなかった(こういう自分が怠惰であることを開き直って話しているような文章にもイライラする.イライラさせてしまって本当にすまない).
 
 
そういえば昨日のフリーでは羽生選手が「報われない努力だったかもしれないけど,あれが自分の全て」みたいな発言をしていた気がする.
日本という重圧,王者という重圧を背負ったまま私では到底考えられないほどの努力をしてきた選手が,それを「報われない努力」という言葉で片付けた.
それに比べて(比べるのも選手に対して失礼な話だが)私は報われなかったという感情を持つほどの努力をしたことが今まであっただろうか.
 
 
つくづく与えられた命に甘えている.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どうでもいいようなことをとにかく書き殴っていたら小一時間前の私の感情の波もフラットになったような気がする.
ところで全く本筋とは外れるが(そもそもこの文章の本筋なんてない),インターネットというのは私が小学生の頃,私の目の前にある現実世界には存在しなかったような音楽,写真,動画,文章,その他もろもろを見つけることができる,心躍るツールであったような気がするが,今のインターネットは検索結果にSEO対策をしているサイトが名を連ね,どんな情報もまずはインターネットからという,現実世界の延長線上にある私たちに最も身近なツールという立ち位置になってしまった.
そのことを先程意識し,少し寂しい気持ちになった.
今までほんの少し関心を持っていた情報分野に対する興味は,私の勝手な意識によってもはや風前の灯火である.
 
 
それは言い過ぎた.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中学時代,私は当人のいない場所でその人の適当な陰口を言ってしまった経験が何度かある.
年を重ねるごとに私はどうしてそんなことをしてしまったのかと自分を切りつけたくなる.
私が私自身の中でどれだけ悔やんでどれだけ罪を背負ったとしても,相手にはそんなこと関係ない.
相手からしたら私は絶対的に正しくなかったし,私が何をしようと(もし相手がそれを気にしていたのなら)相手の傷跡は消えることがない.
自分自身の人格形成の中に含まれているであろうこういった要素を見ると,私は音楽で一体何を伝えているのか?そもそも発信する資格なんてあるのか?という考えにとらわれる.
過去に何があったのか,根掘り葉掘りと炙り出されて「それはコンプライアンス的に…」と一斉にバッシングを受けて現在の生活に影響するなんてことがザラにある現代的な風潮もある意味過激だといえるだろうが,それにしても私に何かを発信することが許されるのだろうかと常々感じている.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いよいよ本当に何を書いているのかわからなくなってきた.
どれだけ堕落的でも,どれだけ怠惰でも,クソ生意気なことにまだつくりたい音楽があったりする.
それを私の手の中で表現することができるのは一体いつなのだろうか.
怠惰や堕落の背後には焦りがあり,そしてきっかけがあると信じたい.
信じたいとかそういう姿勢が怠惰だと何回言えばわかるんだ.
私が今より一歩でも前に踏み出さないことには何も始まらないということだけは一旦心に強く刻みつける.
いきなりクソ真面目になってなんでもやろうとするときっと三日で終わるので.
 
 
 
ブログになんか載せるつもりじゃなかったけれど,こんなにたくさん文章を書いたのは久しぶりな気がするので載せてしまいました.
ここまで読んでくれたあなたにありがとう.
お久しぶりです.
二年ぶりくらい.